大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和41年(う)1419号 判決

被告人 奈佐原孝

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人佐伯千仭、同井戸田侃および同山本正司共同作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一点について。

論旨は要するに、原判決は、被告人は被害者松本かよ子にまつたく気付かず、被告人運転の自動車を同女に接触させ、これにより同女を死亡させたと認定しているのであるが、証拠によれば、被告人は被告人運転の自動車の進路から離れた路地内で同女が遊んでいるのを目撃していることが明らかであるし、この同女に同自動車を接触させた事実は証拠上認められないから、原判決にはすでにこの点において判決に影響を及ぼすこと明らかな事実誤認がある、というのである。

記録を精査し、原審および当審における証拠調べの結果を総合検討して調査した結果、当裁判所はこれに対し以下のとおり判断する。

一、昭和三六年二月三日午後四時前ごろ、大阪府茨木市大字下中条四二四番地の三居住の柴原正彦および松本怜子夫婦の長女松本かよ子(昭和三三年九月五日生れ、当時二歳四ヶ月)が近隣に住む中村義弘(昭和三二年一〇月一日生れ、当時三歳四ヶ月)とともに遊びのため右松本方から外出し、同人方表(南側)を東西に通じる巾約五・五メートルの道路(以下本件東西道路という)を南に渡つて、同道路に丁字型に交差して南に通じる巾約二・五メートルの路地(以下本件路地という)に入り、しばらくの間は同路地北入口(右東西道路からの入口)から南に若干入つたところで右義弘とともに砂遊びなどをしていたが、やがて同女は、同路地入口附近で泣いているところを、右松本方南向い(ただし右路地の東側)の製パン業株式会社エビス屋の店員伊藤明により発見されて抱き上げられ、松本方へ連れて行かれたところ、そのころ同女は生気を失つており、これを見た母親松本怜子があわてて同日午後四時過ぎごろ同女を近くの同市下中条三六九番地の八河合外科病院に連れて行つたが、その直後ごろに同女は死亡したこと、および、同女の身体表面には、右死亡当時、その左眼外眥部に拇指頭面大の、恥骨部に拇指頭面大の、右そけい部に四・〇×〇・七センチメートルの、右膝蓋上部にえんどう豆大の、右外[骨果]部に小豆大の各皮下出血と右外[骨果]部に小豆大の表皮剥脱の傷害があるだけであつて、これらの各外傷はいずれも死因と直結しあるいはこれを推測させるものではなかつたが、死後解剖の結果によると肺臟部に若干の出血部位があつたほか、その肝臟が左右両葉を界する肝円靱帯に沿つてまつたく左右に離断する程度に破裂しており、同女はこの肝臟破裂による実質性の出血(滲出性の出血)のため失血死したものであることは各種の証拠調べの結果に照らし明白である。

また、木村得三作成の鑑定書、原審鑑定人山沢吉平作成の鑑定書ならびに右大村および山沢の原審鑑定人兼証人、当審証人としての各供述内容によれば、右松本かよ子の肝臟破裂は、同女が前記のとおり中村義弘と遊びに出てから伊藤明によつて泣いているところを抱き上げられるまでの間に、その上腹部から前胸部附近(どちらかといえば、山沢吉平の述べるとおりやや左寄りの部)ことに鳩尾の高さ附近にある程度作用面の広い鈍体的外力が、身体の前方から後方に向けてかなり力強く打撲的ないし挫圧的に加えられたことにより生じたものと一応認めることができるのである。そして、右各証拠によれば、かかる傷害の成因として交通事故を考えるべきことの可能性は高く、さらに、交通事故によるものとすれば、同女が立つた姿勢にあるときに、たとえば速度のあまり大きくない停車寸前の走行中の自動車の車体の一部ことにバンバーの如きあまり尖つていない突出部が同女に前述のごとき力を与えるように衝突し、このため同女はあまり力強くなくわずかだけ飛ばされ、したがつて右衝突時や飛ばされた直後の地面等との衝突時の衝撃ではほとんど見るべき外傷を負わず、しかも車体から轢過その他の二次的外力を受けることもなく、その体内において右車体との衝突時の衝撃により左肺葉実質の一部出血等と前述の肝臟破裂の損傷を蒙つたものとの想定も可能であることが認められるのである。

一方、被告人の司法警察職員および検察官に対する各供述調書、原審証人伊藤明の供述、同人の司法警察職員および検察官に対する各供述調書、原審証人松本怜子の供述、ならびに、司法警察職員作成の実況見分調書(二通)、原審および当審の各検証調書によれば、被告人は前記株式会社エビス屋に勤務し、前同日、前記伊藤明を助手席に同乗させ、同会社の四輪貨物自動車(以下本件自動車という)を運転し、パン空箱の回収、集金等のため得意先を廻わり、午後四時前ごろ帰つて来たが、そのさい本件東西道路を速度を落して東から西に進行し、進路を道路左端(南端)に寄せながら、本件路地入口の前を通過し、同自動車の後尾が同路地道路の西端線に並ぶぐらいの位置で同東西道路の南端に停止したこと、そして被告人は、その位置に同自動車を駐車したまま会社事務室内に入り、その後前記のごとく伊藤明が松本かよ子の泣いているところを発見して抱き上げるまでの間に同自動車を動かしたことがなく、伊藤明がこのように松本かよ子を抱き上げた時にも同自動車は右停止位置と同じところに停められていたことが明らかである。

二、以上のことからすれば、松本かよ子は本件路地入口附近の本件東西道路上において被告人運転中の本件自動車に接触、あるいは衝突し、これがため肝臟破裂の傷害をきたして死亡したのではないかと疑うことはもちろん可能である。そこでこの可能性の問題をさらに検討することにする。

松本かよ子の母親である松本怜子は、原審証言にさいし、「かよ子らはいつたん本件路地に遊びに行つたが、いつたん自分が呼び戻し、この第一回目の外出から五分ぐらいして再び二人で同路地へ遊びに行つた」と述べたうえ、「この二回目に外出するとき、表路上に車がないかどうかを確めたところ、エビス屋工場の前にダイハツミゼツトが東を向いて止まり、路地から空地を距てて西側にある西川米穀店のクロガネベビーがやはり東を向いて止まつていた以外に車は見当らず、それから五分ぐらいしてエビス屋の自動車が帰つて来るのがわかり、さらにそれから一、二分して伊藤明がかよ子を連れて来た」と述べている。もつともこの証言は、事故後三年余を経過した昭和三九年四月二七日のものであり、ことに原審で刑訴法三二八条の証拠として取調べられた同人の司法警察職員および検察官に対する各供述調書中事故当日付のもの(その余のものはすべて事故後一年半以上経過した後のもの)には「最初裏庭で二人が遊んでいるので子供に注意しながら店(薬局店)の用事をしていた。私が店で客の応待をしていましたが、子供らは向い側の路地に出て来たので道路ではないからと思つていた。路地で二人が遊んでいる姿を見て一寸店の伝票の整理でもしておこうと思い店の机のところで整理をし始めて一、二分後にエビス屋の車が停車するようなスウーという音を聞きながら整理を続けていたが、四、五分もしたとき伊藤がかよ子を連れて来た。」「先に話した伝票を整理し始めてから四、五分と申しましたが、これはエビス屋の人から聞いた時間で私にはぜんぜんわかりません。」と記述されていること、その他右日付のもの以外の前記各供述調書の記述内容と比べてみて、必ずしも全面的に措信し得ない(ことにかよ子らの二回目の外出時に同人が表道路の車の状況を確めたということや、その後同人方表に本件自動車が帰つてくるのがわかつたということ)ものがあるけれども、他に被告人が本件自動車を運転して帰社したのが松本かよ子の最後の外出以前のことであつたと認めるべき証拠はなく、したがつて、証拠上、時間的にみて被告人運転中の本件自動車に同女が接触、衝突する機会のあつたことを否定することができない(被告人および伊藤明の後記のごとき供述証拠の全部または一部を採用すれば、被告人が本件自動車を運転して帰社したのが同女の外出中であつたことは自明の理であるが、反面かかる証拠の全部または一部を採用することにより、同自動車に同女が接触したという事実自体を否定するか少くともこれをいちじるしく困難視しなければならないことになるので、ここでは一応これら証拠を度外視して考える)。

そこで、右の時間的機会があつたとして被告人運転の自動車がかよ子に接触ないし衝突したことの可能性をなおつき進めて検討することにする。

本件公訴事実によると「かよ子の右胸部付近に自車左前部を接触させ」となつており、原判決の認定も「右胸部および腹部附近に自車左前部を接触させ」とされている。この点については、原審鑑定人兼証人大村得三が「かよ子の肝臟破裂の位置は左足の裏から五四センチメートルのところであり、自動車がトヨエースであるからバンバーの高さが四二・五センチメートルである。体が立つていて少し前かがみになつているとすると、このバンバーの高さにあたつて肝臟の破裂があつていいように思う」と述べ、原審鑑定人山沢吉平作成の鑑定書では「かよ子の写真から算出するとき、地上から四二センチメートルないし五八センチメートル前後の部にある比較的作用面の大きな突起物例えばバンバーの類の衝突によつても生じ得るものである」と記載されており、証拠上明らかに認められる、本件自動車の形状(六一年式トヨエース、パネルバンキヤブオーバー。バンバーは前部にしかなく、前部ではバンバーが他の車体部分よりも若干突出している)、同自動車の進路および受傷したかよ子が発見されたと言える位置を考慮すると、同自動車の左前部ことに前バンバーの左角(バンバーの左終端近くで後方に曲つている部分)附近がかよ子に当つたと考えることはたしかに一応可能である。ところでそのバンバーの地上からの高さを検討するに、司法警察員竹田芳隆作成の昭和三七年一二月六日付実況見分調書では下縁は四二センチメートル、上縁は五二センチメートルとなつているのに、司法巡査上村国男作成の昭和三六年二月三日付実況見分調書では下縁が三〇センチメートルとなつており、その間に相違が見られるのであるが、当審での検証調書によれば、被告人が当時のものと車台部および前部運転台部等では同型であると主張する六二年式トヨエースを測定した結果、バンバー下縁の地上からの高さは三六、七センチメートル程度であること、および、バンバーそのものの上下巾は約一〇センチメートルであることが認められ、右各実況見分調書のいずれが正確なものであるかは必ずしも明らかではない。もつとも、右検証のさいに測定した自動車の前車輪のタイヤには「六五〇×一五」、後車輪のタイヤには「七〇〇×一五」の各表示があり、かつ同検証調書中の被告人の供述記載によれば、事故当時においては前車輪のタイヤは「六〇〇×一五」後車輪のタイヤは「六五〇×一五」であつたことが認められるところ、右タイヤの表示中「六〇〇」、「六五〇」および「七〇〇」というのはタイヤの外径をミリメートル単位で表わしたものであるから、右検証当時の車輪のタイヤを事故当時のものに取替えれば、車体各部の地上からの高さは右各外径の差の半分である二・五センチメートルだけ短縮するものと考えられる。その他検証当時の自動車と事故当時の自動車との荷台上部の差異、積荷の差異等を考えると、前記昭和三七年一二月六日付実況見分調書にあるバンバーの地上からの高さはなんらかの誤りであることが明白であり、昭和三六年二月三日付実況見分調書の方がより正確であるとみることができる。結局、右後者の実況見分調書に当審検証調書を参酌し、事故当時被告人が運転していた自動車のバンバー(前)の地上からの高さは、下縁で約三〇センチメートル、上縁で約四〇センチメートルであつたと認めるのが正当であろう。そうすると、このように地上から約三〇センチメートルないし約四〇センチメートルの高さにあるバンバーが、身長八五・六センチメートルの松本かよ子の、足裏から約五四センチメートルの部位にある肝臟破裂部(鳩尾部)附近にあたり(なお、前記山沢吉平の当審証言によれば肺における出血部位は鳩尾部よりさらに高いところであると認められる)、身体表面には前記のごとき外傷(なお、このうち左眼眥部皮下出血とあるのは、原審証人松本怜子の供述により、本件事故前に生じたものとの疑いが濃い)を与えるのみで前記肝臟破裂の損傷(前記山沢吉平の原審証言によれば、衝突時の外力によつて肋骨がたわみ、そのたわみの力を受けて肝臟が破裂したというのである)を生じさせたことの可能性という問題に逢着するのである(ちなみに、前記昭和三六年二月三日付実況見分調書によれば、現場附近の路面は無舗装であるが良好であり、凹凸または欠損箇所はなかつたと認められる)。本件自動車の外形をも考えると、この点については、必ずしも釈然としないところが残るが、前記山沢吉平および大村得三の各当審証言によればそういことの可能性(不可能とはいえない)も考え得るというのであつて、成因の点においても被告人運転中の本件自動車の車体の一部が松本かよ子に接触、衝突して前記傷害を与えることの可能性を否定し得るものはないのである。

このように被告人運転中の本件自動車が松本かよ子に接触、衝突して同女に死因となつた肝臟破裂の損傷を与えることは証拠上時間的、成因的に見て可能であること、さらに、交通事故以外に右損傷の原因となつた外力の作用が現実にあつたことを肯認すべき証拠はないこと、被告人運転中の本件自動車以外の車両が同女のそばを通過して同女に接触ないし衝突したことを認めるべき積極的な証拠もないことを考えると、被告人運転中の本件自動車が同女に接触ないし衝突しこれに右損傷を与えたことの疑はより濃いものと言わなければならない。

三、しかしながら、以上の検討によつてもそれはあくまで可能性の範囲に属するというだけのことであつて、被告人運転中の本件自動車と松本かよ子の死因となつた肝臟破裂の損傷とを積極的に結びつけるものはないのである。

事故当日午後五時前ごろからの実況見分の結果を記載した前記昭和三六年二月三日付実況見分調書には、当時は晴天であり路面は乾燥していた、と記載されており、一方被告人は当日午前中から同自動車を乗り廻していたと認められるから、本件自動車が松本かよ子に当つたとすれば、自動車の当該部に、損傷はともかく、少くとも砂ぼこり等がぬぐわれるなど接触等の痕跡があるべきものと考えられるのに、右実況見分調書および同実況見分をした警察官上村国男の原審証言によれば、同実況見分にさいし本件自動車の子供が当つたと考えられる程度の高さのところを仔細に検討したが、接触痕または擦過痕等(ほこりがぬぐわれたような痕跡も)はなかつた、というのである(もつとも、当つても目に見える痕跡を残さなかつたか、あるいは痕跡を残したが右警察官がこれを見落したとも考えられるし、同人が検査した自動車が本件自動車そのものではなく、これと同種、同型、外観も同一の、エビス屋保有の他のもう一台の自動車ではなかつたかとの疑念も証拠上ないではない)。

松本かよ子の受傷が走行中の自動車に接触、衝突した交通事故によるものであること自体についても、前記大村得三は、当審証言にさいし、「自分は、交通事故によるものとしてはこれまでにかかる臨床例はなく、仮に交通事故であるとした場合、松本かよ子の死体検案、解剖結果、肝臟破裂の態様等からしてどのような発生状況を想定し得るかをかなり疑問に思い、同証言に至るまでおりにふれて考え続けて来たのであるが、胎児を下方に産み落したときにへその緒に続く肝円靱帯が強く引張られ同女の場合と同態様の肝臟破裂をきたしたという臨床例があつたので、同女の肝臟破裂もこれと同様の成因によるものではないかと考えたり、その例として、同女が自動車の車輪の下にその正中線の方向と車輪の軸の方向が直角になるような形で仰向けに倒れ車止めのような形になつているときになんらかの作用で車輪が一瞬回転しようとし、そのときの摩擦で同女のへそのあたりが下向(体を立てたときの足への方向)に引張られ、これにともなつて肝円靱帯が強く引かれたのではないかということを思いついてみたりしている」と述べているのであつて、もとより右のような例示は学問的に究明されたものではなく、本件の場合がかかる成因によるものであるとはいささか考えにくいが、同人がこのような供述をしているということは、とりもなおさず、松本かよ子の傷害が自動車との交通事故によるものであるとしてもそれは、きわめて特異な事例であることを示しているものというべきで、同女の傷害が被告人運転中の本件自動車との接触、衝突によるものであるときめつけるにはなお釈然としないものがあるのである。

また、前記のように本件自動車以外に加害車両が認められないということも、ただそのような加害車両の存在を認めるべき積極的証拠はないというだけであつて、他の加害車両がまつたくなかつたとまで断定するだけの証拠はないのである。原審証人松本怜子は、あたかも、かよ子らの最後の外出時以後伊藤明が同女を連れて来るまでの間に本件自動車以外の車両が附近の本件東西道路上を通らなかつたかのごとく供述しているが、当時の同人の挙措からして同人がそのようなことを正しく断定することには疑問を抱かざるを得ない。そして、原審証人伊藤明の供述ならびに同人の司法警察職員および検察官に対する各供述調書を総合すれば、同人は被告人運転の本件自動車に同乗して帰社し、同自動車が前記のとおり停車したのち被告人とともに下車していつたん会社(エビス屋)の事務室内に入り、その後また同自動車の方に行こうとした(この間の詳細は後記のとおり)ときに、松本かよ子が本件路地北入口に設けられた溝板の上その中央付近に尻を落して泣いているのを発見しすぐに同女を抱き上げたというのであり、本件自動車の右停車後松本かよ子の右発見時までの間には少くとも五分間ぐらいの時間があつたことがうかがわれる(前記松本怜子の原審証言中、この間の時間を一、二分であるとしている部分も措信し得ない)から、その間に他の車両が同道路を通過することも絶無とはいえない。もしその車両が東西に通過する車両であつたとすれば、本件自動車の巾は約一・六九メートルで、前記のごとく路地西側端線の延長上にその後尾を並べるようにして巾約五・五メートルの東西道路の南端に西向きに停車したのであるから、その車両は本件自動車の北側を通過するはずであり、路地入口の溝板の近くを通ることは通例考えられず、そうすると溝板附近にいたと思われるかよ子に接触することはほとんど絶無とも言い得るけれども、一方同路地の奥には数軒の人家があり、またそのころエビス屋の工場の前にダイハツのミゼツトが東向きに停つていたほか路地のすぐ手前(東側)に西向きに停められた一台の単車のあつたことも証拠上認められないことはなく、もしそうだとすると、これらの車両が動いて溝板附近に至りかよ子に当つて受傷させたことも可能性の問題としては考える余地が十分にあるのである。

四、以上は松本かよ子が被告人運転中の本件自動車に接触、衝突して受傷した事実の成否をその可能性の面から検討したのであるが、右事実を認めるためにはさらにかなり説明困難な点が証拠上存在する。

すなわち、前記大村得三および山沢吉平の各原審における供述を参酌して考えるに、松本かよ子が被告人運転中の本件自動車に当つて受傷したとした場合、受傷後しばらくしてから同女が自力で当つたときに倒れた位置から若干動き、伊藤明が同女の泣いているのを発見したときに同女がいたという前記本件路地入口の溝板の中央附近まで這つて来たということも必ずしも考えられないではないけれども、むしろ、当つた時に右溝板の中央附近に倒れ、そのままそこに尻をつき続け、しばらくしてから泣き出したと考えるのがもつとも妥当である。ところが、被告人は前記のとおり右溝板の前を通過し終つてから自動車を停め、運転席の右側ドアから下車して本件東西道路を若干東へ戻り、右溝板の東端から東に続く株式会社エビス屋の敷地の間口のうちその西端から巾約二・二メートルの通路部分を約三メートル南に入り(路地の東端線すなわち右敷地の西端線上には目の粗い金網塀が設けられていた)、そこからその東に設けられた入口を通つて工場兼事務所の建物に入つていること、および、助手席に乗つていた伊藤明は、左側ドアから下車して同溝板の西端に続く無蓋の側溝の上をまたぐようにして通り、続いて同溝板の上またはそのすぐ南もしくは北を東へ歩き、前記間口の西端の部分に達して被告人が入つたのと同じ入口からいつたん工場兼事務所建物内に入つたが、さらに同じコースを逆にたどつて同自動車左側ドアまで来て置き忘れた小銭を取り、再び同じコースを通つて同建物内に入り、さらに次にパンの空箱をおろすため同自動車の方に行くべく、同じ入口から出て来たさいに前記のごとく溝板の上で泣いているかよ子を発見した(ちなみに、伊藤明の事故当日付の司法警察職員に対する供述調書では、「下車して店の二階の事務所に行き、このとき小銭を忘れて来たのですぐに車のところにおりて行つた。車から金を取り出しその金を持つてすぐに二階の事務所に行つた。事務所では集金して来た金を事務員に渡し、未集金の店等を報告し、事務所で一服した。ここで約二分ほど一服し、事務所から下におりて工場の中でパン製造の人たちと一、二分話をしていたが空箱をおろそうと思つて表に出た。」となつている)ことが証拠上明らかである。

そうすると、もしかよ子が最初から溝板の上に尻を落していたとすれば、被告人はともかく、同じところを三回も通つている伊藤において通行の妨害にもなつている同女に当然気付いたはずではないかともいえるのである。しかるに、右伊藤は事故当日以来そのようなかよ子に気付いたことはないと一貫して述べているのである。

もつとも、げんにかよ子は溝板の上に尻をついていたが、そのことをとくに意識しなかつたということも考えられる。しかし、そうだとしても、最後に泣いているかよ子を発見し同人がそのことで多少なりとも不審に思つたとすれば、そのとき同人は同女がその前から溝板の上にいたことを思い出すべきはずである。それにもかかわらず同人がそのことを隠したとしたら、そのことで嘘をついたという意識は心に留まることであろう。そして同人は、事故後五ヶ月ほど経た昭和三六年七月ごろには、被告人の下車後同人においてかつてに本件自動車を運転しかよ子に受傷させたのではないかとの疑のもとに警察官から被疑者として取調べられ、昭和三八年一二月ごろには検察官からも同様に被疑者として取調べられているのであり、最初の下車当時からかよ子が溝板に尻をついていたということはこの自己に対する疑を晴らすためある程度有力でもあるから、それらのさいに真実を述べるはずであるとも考えられるのである。要するに、伊藤明が前記のごときかよ子に気付かなかつたと一貫して述べていることからすれば、同女が被告人運転中の同自動車に接触、衝突したという事実自体が疑問視されてくるのである。

そればかりではなく、被告人運転中の自動車が松本かよ子に当りこれに受傷させたことと相容れない証拠もあのである。

すなわち、その一は、被告人の自動車に同乗していた伊藤明の供述である。同人の検察官に対する昭和三八年一二月三日付供述調書中に「子供が二人いたとは確実に申上げることは本当にできないのです。しかし男の子が道路の方を向いていたのはたしかに見ている。女の子については本当のところ確実に見ていないが、あとで男の子といつしよに遊んでいたということを聞いたりしたし、その二人の子供は男の子のすわつていた所に女の子もいたように思つたのでそのように申し上げたのです」とあるのを除き、同人は、本件自動車が本件路地入口前を通過する直前またはこれが停まるときもしくはこれから降りて事務所へ行くときに、かよ子と中村義弘の両名が路地入口から二、三メートルもしくは一、二メートルほど南に入つた路地の路上で遊んでいる(ときによつては、砂遊びをしている、または、すわつて遊んでいる)のを認めた旨、事故当日以来司法警察職員および検察官に対する各供述調書ならびに原審証言において一貫して供述している(ただし、司法警察職員に対する昭和三六年二月三日付供述調書では、「車が停車するとき」のこととして述べられ、司法警察職員に対する同月八日付および同年七月一三日付供述調書では、「下車して事務所へ行くとき」のこととして述べられ、司法警察職員に対する昭和三七年一一月二八日付供述調書および検察官に対する昭和三八年三月二〇日付供述調書では「路地入口前通過直前(または停車直前)」のこととして述べられたうえ、「下車して店に入るときのことは記憶がない(または、そのときはとくに気にしていなかつた)」)となつている。なお、同人がエビス屋を退職した後の当審証言にさいしても、同人は停車直前のこととして同様のことを供述している)のである。

その二は被告人自身の供述である。被告人もまた、自動車を運転して本件路地入口直前にさしかかつたとき同入口から二、三メートル南に入つた路地の路上でかよ子と中村義弘の二人が遊んでいるのを認めたこと、および、停車後下車して事務所へ行くときにも右二人が同じ場所で遊んでいるのを認めたことを、司法警察職員に対する昭和三六年二月三日(事故当日)付、同月八日付、昭和三七年一二月三日付各供述調書および検察官に対する昭和三八年一二月四日付供述調書ならびに原審公判廷において、一貫して供述しているのである。

そして、他の確実な証拠により、被告人運転中の自動車がかよ子に当り同女に受傷させたことを認定し、これによつてこれらの供述が虚偽であるときめつけること以外にこれらの証拠をたやすく排斥するすべはない。

五、そこで、本件における唯一の目撃証人とみられる中村義弘の原審証言について検討する。

所論は右中村義弘には証言能力はなく、証人としての適格を有しないと主張する。なるほど、証言能力のない者は証人適格のないことは所論のとおりであり、右証人中村義弘が原審証言当時いまだ六歳七ヶ月の幼児であつて、しかも三年三ヶ月以前に経験した事項の供述を求めるものであることもまた所論のとおりである。しかし、証人の証言能力の有無を判断するにあたりその年令が重要な基準となり得ることは勿論であるけれども、その能力には自ら個人差のあるところであるから、幼児であるからといつて一概にこれを否定することはできない。本件の場合右証人中村義弘が証言当時所論のように幼児であつたとはいえ、その証言内容に徴し、自己の証言する事項の何たるかを十分理解した上でその経験したとする事実を供述していることが認められるから、その証言の信憑力はともかく、所論のように証言能力がないとはいえない。この点の所論は採用することができない。

よつて進んで右証言の信憑力について考えてみることにする。

原判決は、原審証人中村義弘の供述記載(速記録)中、問「その時かよちやんね、なんで死んじやつたの」答「自動車にね、あるでしよう、エビス屋の自動車」、問「あそこにある自動車か」答(うなずく)。……問「お砂遊びしてて、どうしてかよちやん自動車にひかれちやつたの、ぼく立つて見てたの」答(うなずく)。……問「その前かよちやん自動車にあたつたのどこ」答「車……」、問「その車どこにあつた」答「あのね、あそこ」。……問「その車どこの車」答「ヱビス屋」。(注「……」部分には他の問答あり)の問答を摘出し、同人はこれにより「かよ子ちやんがヱビス屋のブウブウにあたつてこけて泣いた」という趣旨のことを述べているとしたうえ、同人の同証言中この趣旨を述べる部分には信憑力があるとし、これにより、かよ子の死はヱビス屋の自動車との間になんらかの関係、あえて言えば接触によるものと認定することができる、と説示しているのである。

しかしながら、過去の事実に関する証人の証言は、その者がその事実を正しく観察、銘記して正しく記憶し、かつその記憶を正しく保持し、さらにそれにもとづいてその覚知したるところを言葉により適切に表現するところに証拠としての価値があるのである。この過程のいずれかの部分に弱点があれば、相対的ではあるがその証言の信憑力または証拠としての価値が稀薄化することを免れ得ない。

そして、

(1)  右義弘の原審証言は、同人が当時三歳四ヶ月の昭和三六年二月三日に体験した事柄につき、それから三年三ヶ月も経過した昭和三九年五月一一日に供述を求められたものであること、

(2)  この間同人は、伊藤明がかよ子の泣いているのを発見した直後同人から「どうしたのか」と尋ねられ、その場に来合わせた吉田和子からも同様に尋ねられ、続いて自宅(祖父方)に帰えり祖父木原三男および母親中村徳枝に自発的に訴えたことはともかくとしても、事故当日、間もなくやつて来た警察官から問いただされ、かよ子の母親松本怜子にも同人宅に呼び入れられて問いただされ、その後も、警察官が数回訪問し、同人に自動車の模型を示すなどして問いただし、家人も同様のことをしたり絵を書いてみせたりするなどして何回も問いただし、昭和三六年一一月三〇日には民事事件の証人として、原、被告訴訟代理人や裁判官により供述を求められ、昭和三七年一〇月一五日には警察官があらためて質問して供述調書を作り、昭和三八年一二月二日には検察官が質問して供述調書を作り、これらの経過を経てはじめて原審証言にいたつたもので、この間に諸種の誘導、暗示が作用していることは当然であり、本来の記憶の喪失、記憶内容の変容の可能性はきわめて高いと考えられること、

(3)  ことに、伊藤明の司法警察職員に対する昭和三六年二月三日付供述調書、吉田和子の証人調書(民事事件における、昭和三七年四月五日の同人に対する証人尋問の結果を速記したもの)および中村徳枝の司法警察職員に対する昭和三六年二月七日付供述調書によれば、義弘は、かよ子が受傷したのちも、路地入口から二、三メートル南に入つた路上で砂遊びを続け、そこへやつて来てかよ子が泣いているのを発見した伊藤明から「どうしたのか」と問われ、続いてその場へやつて来た吉田和子からも同様に問われ、やがて近くの自宅(祖父方)に帰えり、すぐに祖父木原三男および母親中村徳枝に自発的に訴えていることが認められるところ、かかる早期の義弘の発言内容が比較的早期から比較的正確に保全されているのは右中村徳枝の供述調書(事故後四日目の二月七日付)をおいてほかにないと考えられる(伊藤明の前同日付供述調書中には「車に当りはつた」と片ことまじりで言つた旨記載されているが、この「車に当りはつた」というのは義弘自身の発言内容ではなく、義弘の言葉を聞いて伊藤明が解釈判断した内容に過ぎないことは、右各証拠のほか伊藤明の原審証言に徴して明らかである)のであるが、この中村徳枝の供述書によれば、義弘は右帰宅時の祖父および母親に対する自発的訴えとして「かよ子ちやんこけはつた……ヱビス屋のブーブーに……うんうんしてはる」という程度の表現しかなし得なかつたこと、

(なお、その他の証拠によるも、吉田和子が前記のとおり現場で尋ねたときの義弘の応答の内容は「ブーあそこへ」と言つて指をさし「あそこでこけはつた」という程度のものにとどまり――吉田和子の前記証人調書。同人の原審証言中「あそこでブーにあたつた」とある部分は措信できない――、右自発的訴えの数十分後警察官上村国男が来て尋ねたときの義弘の応答内容も、「エビス屋のブーブ……かよ子ちやんこけた」――中村徳枝の同日付供述調書――とか、警察官が聞いてもなにも答えないが、祖父、祖母、母親等が「かよちやんどなんしたの」と尋ねると「かよちやんヱビス屋のブウブウこけはつた」と片言まじりに言い、いろいろと「どなんしてこけた」とか「ブウブウに当つてこけた」とか聞いてもらつたが、ただ「ヱビス屋のブウブウにこけた」と言うのみであつた――上村国男の昭和三七年一〇月一二日付供述書――という程度のものにしか過ぎなかつた。)

(中村徳枝の原審証言(昭和三九年五月二〇日供述)中右自発的訴えの内容を「ヱビス屋のブウブウに当つてかよ子ちやんがこけて泣いてはる」とし、その数十分後警察官が来て尋ねたときの応答内容を「車にあたつてこけて泣いてはつた」とする部分、原審証人木原三男の証言(右同日供述)中右前者を「かよ子ちやんがヱビス屋のブーにあたつたわ、泣いてるわ」とし、右後者を「ヱビス屋のブーに当つてこけた」とする部分、同人の司法警察職員に対する昭和三七年一〇月二三日付供述調書および検察官に対する昭和三八年一二月二日付供述調書中右前者を「ヱビス屋のブウブウにかよちやん当りはつて泣いている」とか「ヱビス屋のブウブウにかよちやん当つたわ、こけたわ、泣いている」とする部分は、いずれも措信し得ない。また、原審証人松本怜子の証言(昭和三九年四月二七日供述)中、事故当日午後五時ごろ病院から帰つて義弘を呼んで「かよちやんどうしたの」と尋ねたとき、同人は「ヱビス屋のパンの車、あの車にあたつてこけはつた」とか「ヱビス屋のパンの車(またはあの車)」と言つて指さし「かよちやん当らはつた、ほいでこけはつた」と答えたと述べている部分も同様措信し得ない。)

(4)  そして、原審で中村義弘の記憶力、観察力、表現力等につき鑑定人として鑑定に従事した山松質文(大学教授。心理学者と推察される)は、原審証人として、「後日表現力が増大したとき、その時点での経験をそれに従つて表現することは可能であるが、過去の経験を、その後日の表現力を用いて説明できるかは疑問である」旨述べていること、

(5)  その後の義弘の供述をみてみるに、昭和三六年一一月三〇日の民事事件の証人尋問にさいしては、問「それでかよちやん泣き出したの」答(うなずく)。……問「こけたの」答「うん」。……問「かよちやん誰かに泣かされたの」答「ヱビス屋のね……」、問「ヱビス屋のなんに泣かされた」答「自動車」。……問「ヱビス屋の自動車がどんなして泣かしたの」答「ここへガチヤンとしたの」など(速記録による)と一応応答し、昭和三七年一〇月二五日(事故後一年八ヶ月目)付の司法警察職員に対する供述調書では、問「かよちやんいまいるの」答「しんでる」、問「なんでしんだの」答「じどうしやにしかれて」、問「どこのじどうしや」答「ヱビス屋のじどうしや」。……問「かよちやんじどうしやにあたつたの」答「あてられたの」、問「かよちやんじどうしやにじぶんであたつたの」答「あてられた」(速記、録音等によるものか否か不明)と応答しているのであるが、いずれも事実を物語り得ていないうえ、ことに前者の速記録によれば、比較的単純な質問にたえず横道にそれながら、質問者の方向づけの結果ようやくのことでしかも実にたどたどしく応答するにとどまり、また、「かよちやん泣いていた。ポンポン痛いて。血たこさんでてきたの」という事実に反することを誘導によつて答えたり、どこでがちやんとしたのという問に対しては自動車の左後輪を指してみたり、左前輪を指してみたりして定まらず、かよちやん自動車に当つたの、当らなかつたのの問に対しては「あたつた」と答える一方、「自動車バツクしたの」と述べたり、自動車動いていたのの問に「止まつていた」と答えたり、ひとりでころんだんじやないのの問に「ひとりでころんだ」と答えたりもしており、後者の供述にさいしては、どこでこけたのとの問に対し「あのね、このなかにはいつてこけたの」と自動車の写真で左前バンバーの下に入りこんだように答えたり、じどうしやとまつていたのの問に対しては「うごいていた」と答えるなど前者の場合に比較して供述内容が動揺していること、

(6)  原審が採用した義弘の原審証言を検討しても、自ら事実を物語ることができず、質問者の方向づけと誘導を混えた質問の結果ようやくにしてぼつりぼつりと前記のごとき応答をなし得ているに過ぎないうえ、「ここ持つてね、自動車動いた、下の中へ入つたの」とか「この車がね上に乗つたの、おなかの上に」とそれまでの供述とは異つたことを述べたりしていること、

(7)  前記原審鑑定人山松質文は、その作成にかかる鑑定書および原審証言にさいし、「義弘の当時の認知能力のほかその発言の自発性、迫真性から考えると、事故直後同人が祖父および母親に自発的に訴えた前記発言には十分の信憑性があると認められ、ヱビス屋の自動車とかよ子がこけたこととの間に強い連関がある実体的な印象が義弘によつて覚知されたと認めることができる。しかし、それ以後の尋問時等の供述については、誘導質問に対する拘束性や被暗示性の高いことを示すと思われる応答がみられるなど、一般に信憑性は低いものと考えられる。ただ、これら尋問時の供述に信憑性があるか否かは、供述内容が変容しているか否かといつた観点から論じるのではなく、むしろ対話者間の心理的動性に存するのである。そして右各尋問にさいしても、ヱビス屋の自動車とかよ子がこけたこととの間の強い連関が一貫して主張されている点は注目に値する。なお経験事実が簡単であれば記憶されやすく、暗示にもかかりにくい。」旨述べているのであるが、同人の原審証言では、当初の自発的発言によつても、ヱビス屋の自動車とかよ子がこけたこととの間にどのような具体的連関があつたのかは決められない(もつとも、それは義弘の記憶像が不克明であつたことによるのではなく、表現することができなかつた、あるいは大人に聞き出す技術がなかつたことによる)と述べられていること、

(8)  本件事故当時ヱビス屋には被告人が運転していたのと同種同型の自動車が四、五台あり、これらの自動車が本件東西道路をさかんに出入していたことは諸般の証拠上推察にかたくなく、義弘も家人等から教えられ、ヱビス屋の自動車は危険であるとの既定観念があつたのではないかとも考え得ること、

(9)  被告人運転の自動車は、前記のごとく路地西側端線にその最後尾を並べるようにして停車したのであるが、同西側端線および路地入口西端から西に続く東西道路南側端線上には、本件事故当時目のきわめて粗い木柵が設けられていただけであつて、同停車後も、路地入口から二、三メートル南に入つたところで遊んでいる義弘にとり、駐車中の同自動車を十分に望見することができ、かつこれに反し、右の義弘にとつて本件東西道路の右方(東方)への見とおしは路地の東側にあるヱビス屋の建物にさえぎられて非常に悪く(原審における検証調書によれば、本件自動車の前端が路地入口東端の手前数メートル(六ないし八メートルぐらい)のところにさしかかつたときに、その最前部運転台にいる運転者から、路地入口から約三メートル南の路地西端寄りにいる人物を初めて認めることができる)、右の義弘が顔を上げて見ていたとしても、その視野の中で被告人運転走行中の本件自動車を観察し得る時間は瞬間的であること、

等諸般の事情を考慮すると、義弘の原審証言にさいしての供述の趣旨を原判決説示のとおり理解するとしても、それが事故当時の義弘の覚知したところをそのまま記憶し、その記憶にもとづいて供述されたものであるか否かはかなり疑わしいとみなければならない。

すなわち、中村義弘の体験内容は、同人が事故直後にその祖父および母親に自発的に訴えたところによつてまずこれを捕捉するのが妥当であるが、そのさいの言語内容は前認定の程度にとどまり、これによつて同人がいかなる事象を目撃し体験したのかを探求し確定することははなはだ困難であつて、被告人運転中の「ヱビス屋の自動車」とかよ子がこけたこととの間に強い連関のあるある具体的事象を目撃体験したとすることにも疑問の余地がないわけではないばかりか、その具体的事象の中で両者がなんらかの連関を持つているとしてみても、それがいかなる連関であつたのかを確定することもきわめて困難であり、その後三年三ヶ月も経過してなされた同人の原審証言は、たとえその前になされた前記民事裁判の証人としての供述、警察官に対する供述調書中の供述および検察官に対する供述調書中の供述に相応する点があるとしても、これらの各供述ともども、はたして自己が正確に目撃、体験し、これを記憶したところにもとづいてなされたものか否かは疑わしく、措信するに値しないというべきである。

六、以上の検討の結果を今一度ふりかえつてみるに、松本かよ子の受傷が交通事故によるものであることは一応これを認めることができ、そしてその受傷は被告人運転中の自動車が同女に接触あるいは衝突することに因るものであるとの可能性もこれを否定することができないだけでなく、交通事故以外の成因や他の加害車両の存在を肯認すべき積極的証拠もないところから、あるいは被告人運転中の自動車が同女に受傷させたのではないかとの疑が一応高まるのであるが、それはあくまでも可能性の範囲に属するというだけのことであつて、被告人運転の自動車と同女の受傷との間の結びつきについて合理的な疑いをさしはさむ余地のないほどの確信を抱かせるだけのものはないのである。すなわち、右の結びつきを考えさせるものとしては、ただ同女が受傷して泣いているところを伊藤明によつて発見されるその五分間ぐらい以上前に被告人が同自動車を運転してその近くを通過し停止したというだけのことに過ぎず、この間他の車両が同女に当つて受傷させたことの可能性を否定するに足りるだけの証拠もないばかりか、証拠上認められる伊藤明の下車後の行動ことに同女を発見するに至るまでの経過と被告人運転中の自動車が同女に当つて受傷させたとした場合のこれとの関係を説明することは困難であり、さらには、被告人および同乗の右伊藤明は被告人運転中の自動車が同女に当つて受傷させたこととは相容れない事実をほぼ一貫して供述しているという証拠関係にあるところへもつて、検察官側が目撃証人として主張する中村義弘の証言についてもその信用性に疑問があり、かような証拠関係にあるのにもかかわらず、適切な反対尋問をもなしがたいような右義弘の供述(事故直後における自発的訴えを含めて考えてみる)をとらえて、被告人に過失の刑責を負わすべき事実を認めることは、きわめて危険であり許されないものと考えるのが相当である。このように考えてくると、被告人運転中の自動車が松本かよ子に接触あるいは衝突してこれに受傷させたことの疑いはたしかに濃厚であるけれども、その証明は十分とはいえないし、なお、仮にその点が認められるとしても、その事故につき被告人に過失の責を問い得るためには、その前提としてさらにどのような状況のもとにどのような経過で同自動車のどの部分で接触あるいは衝突したものであるかの確定を要する(ことに本件自動車が停車寸前の状態の場合であつただけにその必要が痛切に感じられるのである)というべきところ、証拠上これを確定するに足りるものはなく、結局、本件公訴事実についてはその犯罪の証明が十分でないことに帰するというよりほかはない。

してみれば、松本かよ子の死亡事故の発生が被告人の過失に起因するものと判断してたやすくその刑責を認めた原判決は、事実を誤認したものであり、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の控訴趣意について判断するまでもなく、この点において破棄を免れない。

論旨は理由がある。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがいさらに次のとおり判決する。

本件公訴事実の要旨は別紙記載(略)のとおりであるが、同公訴事実についてはすでに検討したとおり犯罪の証明が十分でないから、刑訴法三三六条により無罪を言渡す。

(裁判官 瓦谷末雄 鈴木盛一郎 岡本健)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例